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終活?・・今の内に書き残しておきたい事


太郎ジイちゃん


子供の頃 我が家には何故か「らい病」 に関して書かれた本が有った
今は「ハンセン病」と呼ばれている あの病気に関する本だ。
何回かの引越しで いつの間にか その本は家から無くなっていたが
その内容は 当時 多分小学校3〜4年生位だった私には かなり
強烈な印象で心の中に残っている。
心の奥底にずっと引っ掛かっているのであった。。

NETという便利な物が存在する現在。
ふと この子供のころから気になっている事を 確かめてみたくなった。
これは 太郎ジイちゃんと 何らかの関わりが有ると思えてきたからだ。
ちなみに 太郎ジイちゃんというのは 私の母の父。祖父の事だ。

まず その本の記憶から検索ワードを絞る。
「らい病」「ソノエダ」「飯野牧師」覚えていたのはこの三つ。
すごい!思っていた以上にヒットした。
どうやら これは 救ライ活動をしていた飯野牧師の事を記した本・・
つまり 静岡其枝(ソノエダ)基督教会関連出版の本を 
私が偶然見つけて 読んだらしいのである。

そこで一つ疑問が浮かび上がってきた。
なぜ 代々仏教徒で クリスチャンのクの字も聞いた事もない我が家に
キリスト教会の本が有ったのか?
そこで思い浮かんだのが 母から聞いた太郎ジイちゃんの逸話である。

昔 太郎ジイちゃんの家のそばには「粋な黒塀 見越しの松〜♪」の歌の様な
ちょっと世間とは一線を画した シャンとした家があった。
太郎ジイちゃんちと言うのは 母の実家であり 我が家からも近かったので
私は何度もその「黒塀の家」の前を通った事が有るが 人の気配を感じた事さえ
無かった。 いつかそれを母に訊ねた事が有った。「どんな人が住んでいるの?」

「あぁ あの家はね・・・」母は 遠くを見る様に語り始めた。
話は 戦前の母がまだ少女だったころにまで さかのぼる。
何時からか ハンセン病に罹ってしまったどこかのお金持ちの坊ちゃん・・
といっても20から30代位の青年が 婆やを一人つけられて住んでいたらしい。
母の記憶では その青年の鼻はもう欠けていたという。
あまり外出する事が無かったこの青年だったが 何故か たまにフラリと
太郎ジイちゃんの所にやって来て 「庭の樹の手入れをしてくれ」と言うのだそうだ。
農業の傍ら 臼造りも植木屋もやる太郎ジイちゃんだったから
そういう仕事や雑用を 引き受けていたらしい。

すると 近所の人たちから
「よくも あんな家の仕事を引き受けるもんだ!」と言われたそうである。
当時のハンセン病は 「感染する病」「不治の病」と恐れられていたのだから
いちがいに「無知のなせる技」とも言い切れない反応であった。
それでも 太郎ジイちゃんの対応は少し違った。
「おんなじ人間だ なんにも変りはない。」
そう言って その黒塀の家へ行っては 庭の手入れ等していたのだそうである。

母に聞いた話と その本の内容が混ざっているが記憶ではこんな時代だったようだ。。
当時ハンセン病に罹ると 家族は幾ばくかの金銭を持たせ 泣く泣く縁を切り 
当人を諭して家から出す。 彼らは必然の様に 河原などに集まる事が多かった。
中には お金をいっぱい詰め込んだ羽根枕を持った 何処かの令嬢らしき娘もいたとか・・。
私の住む静岡で河原・・と言えば あの安倍川である。
温暖で知られる静岡ではあるが 冬の山から下りてくる風は やはり冷たい。
なんの因果応報で 一人河原で震えていなければならないのか・・?
その時の彼らの心中を思うと 遇った事も無い私でさえ涙をこらえきれない。


やがて国の方針により「らい病専門の療養所」が各地にでき 彼らはそちらへ行く事になる。
その為に ハンセン病患者達との間を奔走した人達の中に
教会関係者や飯野牧師たちが 居たのらしい。
あの黒塀の家の青年も その療養所に入ったのだと 私は思った。
とりあえず河原の人々も ホームレスの様な不安定な生活からは 解放されたのだが
その人達の苦しみは まだ続いていたのを わたしもよくしらなかった。
機会が有ったら書きたいと思うが ここでは それは省く事にする。

こうして いろいろ書いていたら 一つの仮説が ボンヤリ出来上がって来た。
「太郎ジイちゃん クリスチャン説」! もちろん仏教にも通ずる事ではあるが
当時「おんなじ人間だ」という考えはあっても それを声に出す人は少なかった。
それに 我が家に有った謎の本。 教会あるいは 飯野牧師と太郎ジイちゃんの接点が
きっと どこかに有ったのだ。 洗礼は受けなかったにしても 
かなり 傾倒していたらしい様子はうかがえる。
其枝(ソノエダ)教会も近いし・・漠然とではあるが 私はそう確信した。

太郎ジイちゃんも母も父も 皆 亡くなってしまった今となっては
なにも確かめようがないが
あの頑固で一刻者でゴツくて 大酒飲みで 呑んでさえいればご機嫌だった・・
そんな印象ばかりだった あの太郎ジイちゃんが 優しく崇高な人にさえ思え
日が経つにつれ 懐かしく思い出される。叶うなら 又 話をしたいと思う。


息子達に こういう人が大ジイちゃんで居た事を知ってほしい。
これは 彼らに 大上段を構えて話す様な事でもないし
機会を待っていても そんな機会も訪れない可能性が大。
この終活ページに 加えておこうと思う。

2016年9月17日




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